戸惑うデクノボー未満

暑い日が続き過ぎてヤヴァイですね。しばらくずっとこんな感じという天気予報を聞いて白目をむいているところです。

本当は親子で色々お出かけしたいけどさすがにちょっとムリやでこれは…ということで、早朝に近所の氏神様まで参拝しに行けたらラッキーくらいのスローペースで過ごしています。あとたまに車で近場の神社仏閣へ。日の出とともに開門くださるので、涼しいうちに参拝できるのはありがたいですね。祈祷をお願いしたり自分で読経したりしていると、なんやかんやで1〜2時間すぐに過ぎてあっという間に灼熱タイムがやってくる…。

家での自由時間は触れ合い遊びや、絵本や童話集の読み聞かせをしています。本は完全に自分の興味関心に寄せて集めました。例えば日本の昔話の笠地蔵ひとつとっても、本によって再話の仕方が異なるもので。どのような地域のどんな息遣いで語り継がれてきた話を採用しているか、またそれをどのように再構築したかは気になるポイントです。作り手の思想があらわれる瞬間と言いますか。そこをじっと見つめて集めましたので、こだわりの本棚が出来上がっているかと思います。

この視点は宮沢賢治さんの雨ニモ負ケズの手記を拝見した時に学びました。何年も前のことになりますが、拝見当時、私はたまたま法華経について学んでいて、彼が法華経に親しんでおられたことを知っていた程度でしたが、手記の最後を見てハッとなり、新たな目が開かれた感覚を得ました。

雨ニモ負ケズの詩の後には、つづけて仏様の名が書かれています。それが、仏様によって文字の大きさを変えており、曼荼羅になっているのです。詩に続けて間髪入れず、彼は文字曼荼羅を描いておいでだったのです。それは例えば長谷川等伯さんが描いた曼荼羅と同じだと感じました。私は本当に驚きました。これこそがこの詩の核となる部分、この詩のエンジンであったのかとようやく気付いて、その場にへたり込んでしまいそうになりました。

教科書など一般の印刷物では、この部分は除去されがちです。この詩に触れるとき、頭のどこかで何か足りない、何かが私には見えていないと薄々感じていたのはまさにこの曼荼羅だったのかもしれないと思いました。それ以来、目の前の文字列の奥を慎重に見つめるようになりました。

話を戻しまして、そう、こだわりの本棚。こだわり…別の言い方だと狂気かな、この狂気というのはとても大切だと私は考えています。が、まあその話は別に今じゃなくてもいいです…またおいおい…。

で、そうやってあれこれ本を読み聞かせしているうちに、せや!絵本を作ったらええかもしれん!と思い至りました。狂気の本棚から本を選び、毎日せっせと子どもに向かって読み上げていたはずが、気付けばそれは自分自身への読み聞かせになっていて、私に吸収された物語の力が血肉となり鼓動を打ち始めたかのように思われました。

子どもそっちのけやないかいと、自我の強さに戸惑いつつも、同時に、親と子の関係において対等などありえるのだろうか、圧倒的に親はあらゆることを押し付ける側、ある意味、加害者でしかありえず、子どものためは結局のところ自分のためでしかないのではないかという感覚もあり、とは言えそんなこと言い出したら何も始まらんということで一旦とりあえず戸惑いやら加害性やら何でもいいからそのまま持って進む、そして将来、子どもに「あれは嫌だった」と言われたら本気で謝罪することしか出来ないと腹を括っている今日この頃であります。一体何の話や。

youkou

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